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おばこ店長の家庭菜園

果物系を地道に育てるおばこ店長のブログです

慰安所の記憶

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慰安所の記憶

終戦記念日ですね
安倍総理の談話は難しくて私にはよくわかりませんが
もう私もそろそろいい年なので
先の大戦でいろいろ問題になっている従軍慰安婦について
私の記憶をのこ越しておくことにします

開戦前 トラック
トラックとはトラック諸島 現チューク諸島のことで
当時我々海軍の前線基地があったところです
環礁の中に島々があり 春島 夏島 など大小の島々がありました
もともとはドイツの植民地であり第一次世界大戦の結果
サイパン パラオなどとともに国際連盟により日本の信託統治領となっていました
多くの日本人も同地に進出していました
軍事基地化は禁止されていましたが対米開戦不可避となり飛行場の整備など急激に軍事基地化が進んでいました
本格的な軍の進出とともにいろいろな娯楽施設も開設されました
もちろんそこにはいわゆる慰安所というものもありました
慰安所といっても われわれラインオフィサー いわゆる海軍兵学校卒業者向けは料亭(レス)であり
Sといわれる芸者が酒の相手から床の世話までする感じでした
特務士官 准士官用 下士官兵用とこれらの施設はわかれていて
士官と兵が同じ女を抱くということはあまりないと思います
特務士官(学校を出てない兵卒士官)などの施設は詳しくはわかりませんが
私たちの相手をするSはいわゆるプロであり
兵学校を卒業したての私からするとずいぶん年増に感じたものです
(実際は25歳程度だったかもしえません)
常夏の南国というのにSたちは夜は和装であり髪にはお香をたいていましたのが記憶に残っています
昼間など仕事ないときはSたちは西洋傘(日傘)などをさして外に出て
発着訓練中の航空機や出港入港の艦船に手を振ってくれました


開戦 シンガポール
開戦不可避となり私の部隊はベトナム南部に移動していました
マレー半島への電撃上陸戦です
私にとっては初陣でしたがこのときはイギリス艦隊の補足に失敗し
味方の航空機から吊光弾を落とされたりと散々でした
結局 イギリス艦隊主力はわが基地航空隊の攻撃により撃沈され
上陸作戦は無事に成功ししばらくの地上戦の後
シンガポールは陸軍により陥落しました
有名な山下将軍の イエス か ノーかはこの時のことですね

その山下将軍から海軍とともにシンガポールに入城したいという申し出があったそうですが
わが艦隊は次の作戦 パレンバン攻略の援護としてシンガポールをさらに南下し
スマトラ島南部まで進出しました

この作戦も成功し 2月末ようやくシンガポールに入港しました
山下将軍の配慮で我々海軍の入城にも捕虜となった英兵を整列させ
その光景は私にものすごい高揚感を与えました
ロイヤルネイビーを屈服させたのだと!

陸軍に遅れてシンガポールに上陸したのですが
ラッフルズホテルなど有名どころはすでに陸軍が接収していて
海軍は陸軍の残りをシンガポールでの拠点としました

私も主計(事務)課の先輩とシンガポールに上陸し接収する施設などに出向きました
中国人(華僑)が経営していた売春宿を海軍用に接収します
華僑は一部が粛清されていたので多くが逃走していました
主を失った売春宿の売春婦たちをトクヨウインとして使うことになり
名簿を制作し
重巡から連れてきた軍医とともに健康診断をすることになりました

当時は性病が蔓延しておりまして これが艦内で発生すると狭い艦内ですから
あっという間に伝染してしまい 大きな問題なります
ですから予防接種はもちろん ガンカバー(避妊具)も重要ですが
売春婦の性病チェックも重要でした

中国人のオーナーが逃げてしまったため詳しい情報がありません
10人程度いた女性たちはみな いわゆる馬来人(マレー人)で
大きな瞳にややずんぐりむっくりで肌が黒かったです
名前や年齢 出身地などを聞こうとしたのですが
どうも言葉が通じないのです
マレー語に堪能な通訳を連れてきているのですが。。。
どうやら部族語しか話せないようである
中国人がオーナーだったから中国語なら少しできるのではないかと
中国戦線の勤務が長い特務士官を呼んできて中国語で話すとようやく
会話らしい会話が成立した

ところが多くが名前はあっても 自分の年齢も出身もわからず 字も書けないのである
名前は 相手の発音を日本語風にして名簿を作り
年齢は軍医が性器などを観察して 推定年齢をつけていく
成人 未成人甲 未成年乙 とわけて
15歳未満と軍医が判断したものは未成年乙となり
売春には不向きとして ホテルのメイドにするとことになった
多くの兵は国に子供を残してきていた
あまり幼い少女を売春の対象とすることはモラルにかかわると判断されたためである
この未成年乙はなんと半分もおり
イギリス軍のロリコン趣味なのか
まぁ当時のシンガポールのイギリス軍は 多くはタミル人(インド人)であり
インド人の趣味がロリコンだったのだろう
当時の白人は差別意識が強くよっぽどの変態でなければ現地人と性交することはなかったからである
白人用の売春婦もいたのだがこれらはみな陸軍が管理においていたのだ

ということでせっかくだから さっそくこのマレー人を試してみることにした
英国紳士に調教されたマレー人は床の中でも終始無言であった
性病防止のためハンモックにされた彼女の股間がちくちくした
覚えているのはそんなところである
ただただイギリスからぶんどった女を抱いていると思うとその優越感は壮大であった


1942年 インドネシア
シンガポールでの休日は短く
今度は蘭印 オランダ領インドネシアのジャワ島攻略戦に参加することになった
交渉でジャワ島を無血占領するつもりであったのだが
オランダは今でいう集団的自衛権を行使して抵抗してきたのである
オランダ海軍は イギリス・オーストラリア海軍のほかフィリピンを脱出したアメリカ海軍と連合してインドネシア最後の砦ジャワ島防衛のため必死に抵抗してきたのである
これが私の初めての実戦であるが その話はまた今度詳しくしたいと思う

結局オランダ軍の抵抗を排除し上陸は成功 インドネシアのオランダ軍は全面降伏した
わが軍に占領されたバタビアはジャカルタと改められ さっそくに入港した
シンガポールと違って 田舎くさいといえば田舎くさい
頭に籠を乗せた中年の女性がバナナなど土地の果物を売り来ている
ただ このジャカルタを含むジャワ島は陸軍の管轄になり

海軍は ボルネオの東部(旧オランダ領) スラウェシ島 パプアなどを管轄することになった

そのためジャカルタやスラバヤなどの都市に縁があまりないのだが

スラバヤについても少し書いておこう

スラバヤはジャワ島東部の 港町であり
航路の要である そのため多くの船が寄港する
で 海の男が日ごろのうっぷんばらしをするところが 売春宿である
スラバヤの中国人はシンガポールと違って逃げ出さす
元気に営業中であった
ここの多くの国際船の寄港地であり
売春婦もいろいろな人種がいた
私は初めて黒人をみたのもここである
まっくろで髪は坊主であった
衝撃的な一幕であった


スラウェシ島ケンダリー

わが海軍はつぎの作戦オーストラリアをけん制空爆するために
飛行場の整備に取り掛かっていた

スラウェシ島の要港 ケンダリーの空港を施設するために私も上陸することになりました
ジャカルタやスラバヤに比べると まったくもって何もなく
すこし進むとジャングルである
いたづらな猿まで出没し 衛兵の一人が敵襲だと錯乱して発砲して大騒ぎになったりと
海上勤務のわれわれがジャングルに放り出されれば精神的に不安定になることが多いのです

娯楽もなく兵士たちのストレスは最高潮にたっしていたのか
基地内に悪いうわさが流れていた
兵士の一部が地元の村に押し入り若い娘をさらって強姦するという
本当ならば大事件である
さっそく秘密裏に調査が開始され
ほどなく3人が犯行を自白したのである。。。。

村に侵入した彼らは女性を拉致して森の中で犯しそのまま放置してきたというのだ
それも3回も。。。。

軍法会議にかかれば間違いなく厳罰である
基地司令の親心か彼らは秘密裏に艦に戻された
公になれば指揮官の責任も問われるので
こういう処置になったのだろうが
とりあえず女性の遺体だけでも村に戻してあげようと
捜索隊を出したのがジャングルに不慣れな我々はジャングルで2人もの行方不明をだしてしまい
捜索は失敗に終わったのだ

インドネシアではほかにも 労務者として徴用した女工の宿舎に夜這いをする兵が後をただず
それが慣例になったり

他の島から繊維工場で働く仕事あるとだまして連れてきてそのまま慰安所に押し込めたりと
兵個人の犯行 組織をうかがわせる犯行など様々あった




フィリピン 1942年
オーストラリアのダーウィン港爆撃 
インド洋のセイロン島空襲などを転戦した私は一度内地に帰ることになった
その途中寄港したのがフィリピン マニラである
すでに日本軍の占領してからしばらくたっていたマニラ市内は
平然としていたがこのフィリピンはゲリラが多く外出の際は気を付けるようにと注意された

すでに慰安所が開設されていたが
噂によればここには アメリカ軍の使っていた売春婦がいて
アメリカ仕込みのプレイが売りだそうだ
スペイン人だとかスペイン人と現地人のハーフだとか聞く(フィリピンは旧スペイン領)
人気があり値段も日本人や朝鮮人 沖縄人 現地人などの倍はするそうだ

残念ながら入湯上陸とはいかず体験することはなかった



1943年 ラバウル
母港に寄港して英気を養い 万全を期した作戦ミッドウェー攻略は失敗に終わり
戦線は南洋 ソロモンのガダルカナルを巡る戦いにうつっていた
ニューギニア東部ラバウルを拠点にして消耗戦を繰り返していた
アメリカの反撃も激しくラバウルも空襲をうけるようになっていた

負傷者も多くでて私の船も被害が出てしまった
そのため
ラバウルに病院船が入港するのにあわせて
本艦もラバウルで負傷者を後送することになった

病院船というのは その名の通り負傷者(遺骨や遺品なども)また民間人 中立の第3国人なども場合によっては乗せる船で事前に航路などを公開してそのかわりに攻撃をされないという戦時のルールによって運営される船である

敵国から検閲されることもあり それに従わないと拿捕される 厳しい制約の上で安全を保障された船である

ラバウルはすでに敵の空襲があり
入港せずに沖合で現地の漁船?に乗り換えて上陸するのである

港にはすでに病院船が停泊していて
港には病院船で帰国する負傷兵があふれかえっていた

そんななか5人程度の若い女性たちが木陰にだらしなくしゃがみこんでいる
近くを通ると その中の一人が寄ってきて 必死の形相で
海軍さん助けてくださいと 懇願するのである

この日私は 司令部に用があり第1種軍装であった 一目で海軍士官とわかる服装であったのだが
この女性 薄汚れた手で私の純白の軍服をつかむのである

この女性の話を 要約すると
ここには騙されて連れてこられた早く故郷に帰りたいというのである

詳しく聞くと
朝鮮の農村の出身で 村長から看護婦の仕事がある それも軍属待遇だというので
それに応募した
400円(大金)の支度金がでて 100円で身支度をし 残り300円は家に残した
何度か寄港しながらここまできたのだが
到着後早々 小屋に連れて行かれてそこで陸軍の兵から手籠めにされて
以後連日朝から晩まで兵隊を相手をさせられていたそうだ
逃げるにもここがどこかもわからない
1か月もしないうちに 下痢がひどくなり 体重もやせて 仕事中(性交中)にも糞を漏らすようになり
さすがに誰も寄り付かなくなり 今回この病院船で帰国できることになったようだ

ところがこの女性はもう船には乗りたくないというのである
また騙されて新しい地獄に連れて行かれたくないのであろう

陸軍の兵隊にさんざん乱暴されたらしくおびえきったようで
海軍の制服を着た私に助けを求めたのであろうが
私には何もできない

私がこの船は病院船で内地に戻ると何度説明しても
全く聞こうとはせず
らちが明かないので
うちの艦で事故で負傷した若い兵士を連れていたのを思い出し
彼を海軍を代表してエスコートにつけると伝えることにした
この若い兵士は年は二十歳 ロープを腕に絡ませてしまい右腕を切断してしまった
艦内で応急処置をしたがこれでは艦隊勤務はできないので
海軍の病院で再手術の予定である
彼はなかなかのハンサムであるし 利き腕を失っているので
殴ったりできないよ とユーモアを交えて説得すると
ようやく落ち着いた様子だ

この女性 病気で痩せこけ 顔も煤汚れていたので老けて見えたが
聞けば18歳だそうだ
無事に帰国できればいいのだが

1944年 シンガポール
アメリカ軍の反攻が激しくなり
戦線は縮小 絶対防衛圏の防衛が国策となっていた

敵はマリアナ諸島攻略に乗り出すだろうと予想されていた
この敵を迎え撃つため
私の所属する艦隊も日々訓練に明け暮れていた
日本国内の石油の備蓄が十分でないため
燃料豊富な南方で訓練をすることになっていた
海軍の秘密基地 タウイタウイなどで訓練し
休暇をシンガポールで過ごすという具合である
シンガポールは昭南島と改められていて
町並みはずいぶん日本風に変わっていた
看板も日本語だし 日本人も移住していたのである
ということで日本風のレスもあり
休暇があった クラス(同級生)と一緒にレスに繰り出すのである
聞けばSは本場京都からの出稼ぎであるという
暑くてかなわないといいながら
飲む酒は熱燗である
暑いときに飲む熱燗は すぐに酔いが回るらしく
クラスともども酩酊する
このころになると戦況は悪化していたせいもあり
クラスでも訃報が多くなっていた

どんよりとした雰囲気になったのをSたちが盛り上げようとするのだが
戦況を知っている我々は酔えば酔うほど本音が出てしまう

するとクラスの一人が作戦参謀にでもなったつもりで
大戦略をうち出すのである
そんなこんなで性欲よりも興奮する上官の悪口など語りながら眠りにつくのである

昭南の町は激戦地から離れているので平和そのものである
陸軍の兵隊たちは朝から慰安所に列を作っている
まぁやることもないのだからヤルわけです

この後戦況悪化に伴い 多くの民間人は南方から帰国するのだが
多くの船が沈められている 出稼ぎにきていたSたちは無事に帰国できたであろうか

知る由もない

1944年後半フィリピン

一大決戦であるマリアナ沖海戦に敗北した我々はフィリピンに上陸するアメリカ軍を迎え撃つべく最後の大作戦が発令された

空母を囮にして残った戦艦で殴り込みをかけるのである
作戦は成功したように思われたが
敵の空母を目視していながら補足殲滅することができなかったのである
敵が巧みといえばそうであるのだが
連日の敵の攻撃で乗員は疲弊していた
艦が無事でも 指揮官も乗員も疲れ切っていたのである
私の艦も魚雷を艦首にくらい 戦闘早々落伍してしまった
もう戦闘に耐えられる状態ではなく
単艦退避を命じられ
途中味方の攻撃機に誤爆されながらもマニラ港まで後退することに成功した
不要な弾丸などは陸揚げしたり他の艦に譲り
応急処置が終わり次第内地へもどって本格的な修理をすることになった
ところがここにも空襲がありついに沈没の憂き目を見たのである
幸い港内にいたので乗組員はほぼマニラに上陸し 武器も陸揚げに成功している
ただ乗艦を失った我々は海軍のマニラ防衛隊となり
侵攻しているアメリカ軍をマニラで向かい撃つことになった
陸戦隊でもない我々は陸上戦闘の訓練もしたことがないのはもちろんだが 武器もないのである
死ぬのはいいが 海で死なせてくれというのが海軍魂である
私もいよいよ 死に場所が決まったかと思ったものだ
海軍はロハス通りのホテルを接収していたのでそこに宿をとることになったのだが
もうエレベーターは動いておらず お湯も出ないのである
しばらく待機していると 辞令が届いた
私は呉鎮守府付ということになり 帰国することになった
といっても帰国するのももう容易ではないのだが、、、

その話をすると 先輩の大尉が私のことがうらやましいと涙を流していた
死ぬのはいいがせめて海軍軍人らしく華々しく艦上で死にたいと

悔しい。。。と 

私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった
その先輩から家族にあてた手紙を託された私は私物のブローニングの拳銃を使ってくださいと
渡した
こんな豆鉄砲でも竹槍よりはましである

マニラの町はすでに閑散としていた
現地人も避難し 陸軍も市街戦をあきらめ山岳地帯へ籠城するようだ
アリの引っ越しのように暑いマニラの町を陸軍の兵士はのろのろと行進している
籠城に備えて 現地人から食料や家畜を略奪し
部隊によっては女性までも下の世話などさせるために連れ出しているらしい

陸軍の去ったマニラ市街地は 静まり返っていた
海軍の兵が陸軍に代わり我が物顔である

それも米軍が襲来するまでだか
私は幸いなことに民間の連絡機で台湾経由で九州まで帰り着くことができた

台湾で上席者に席を譲ったため 年はすでに明け 1945年になっていた



1945年 広島 呉
帰国した私は 列車で呉まで移動した
潜水艦学校の学生になる予定と聞いていたがまだ正確な辞令は出ていない

戦地から戻った私には それなりの休暇がたまっていた
呉で潜水艦学校の学生になっていた同期が2人ほど休みが取れたので
正月早々 3人で 九州の温泉地に繰り出した
戦地勤務の私の財布はイノシシ 10円札でいっぱいであった

海軍御用達の温泉宿は食べ物も酒もたんまりあった
世間でもすでに配給制で食料も乏しいと思っていたが
海軍の息のかかったところはそんなことは全く感じさせない

Sもなかなかきれいで 普段のレスであると いいSは階級の高いところが持って行ってしまうのでなかなかありつけないこともあるが
ここは別である
ただ飲み始めると この小さなクラス会はお通夜のようになってしまった。。。

〇〇が死んだ 〇〇も死んだ 〇〇は入院中だ など

戦況の悪化に伴い 苦楽を共にした同期の多くを失っていたのだ
私はほとんどが艦隊勤務だったためあまり情報通ではなかったらしい
まさかこんなにもクラスメイトが死んでいたのは。。。

Sの人が場を取り持とうとゲームなどを持ちかけるが
私はもうその気力を失っていた
不安の中にもまだ負けるかという気持ちが湧いて出た
酒と温泉で英気を養った私は呉に戻った

私は新しい仕事は戦時急増駆逐艦の水雷長のポストであった
私はこのころまでに中尉に昇進していたし
小型駆逐艦のポストとして妥当なところであろうか

しかし今思うと
もし潜水学校の学生になって入たら
人間魚雷の搭乗員となっていまこの世にいなかったであろう

別府温泉で一緒に飲んだ2人は二人とも人間魚雷に搭乗し戦死している
(一人は訓練中の事故)

ということでしばらく呉勤務となった私は
広島市内の退役大佐の家に下宿することになった
独身の私は所帯もないので この当時下宿が一般的である

新造艦の完熟訓練に精を出し 休みはレスで遊ぶというのが海軍士官のたしなみであるが
私は下宿先の退役大佐の娘さんと縁談の話があり
婚約することなったのである
大佐の娘であるから私には申し分もないし先方にも良縁であろう
これも当時はよくあることであった

ただ戦況も芳しくなく 列車なども米軍攻撃を受けるありさまで
故郷の岐阜の母には手紙で伝え
正式な婚約は戦況が落ち着いた後でということになった

ということで料亭遊びをしてその情報が大佐に知られてはまずいのである
Pというわれる町の売春婦もいるのだが
退役大佐の情報量は侮れないのでおとなしくしていたのである
まぁ 同期から見れば 付き合いの悪い奴 であっただろう

散発的空襲にあったり
戦艦大和の特攻を見送り
B29のまき散らした 機雷を掃海したり

毎日が忙しかった
そして7月末
呉は米艦載機の大空襲に見舞われる
呉に残存していた多くの艦艇が被害を受け
我が艦も損害を出してしまった

武装や乗員は陸上に上げて来るであろう本土決戦に備えるということになった

空襲の被害は甚大で これらの処理のため 下宿先に帰れず
兵学校以来のハンモックで寝起きする生活になってしまった

毎日沈没した艦から使える武装と燃料を引き上げる作業である
日が暮れるとデスクワークが待っていた戦死者の遺品の整理も大量である


気が付けば暦は8月になっていた
そして8月6日の朝 朝の体操をしていた私は一瞬の閃光の後に
いままで感じたことにない大気の振動を感じることになる
一緒に体操をしていた兵たちは唖然とするもの 空襲だと防空壕へ走るものなど
みなあわてふためいていた

私はすぐに司令部に行き
敵襲か何かの爆発事故か調べるように命じられた
私の感覚では爆発はかなり近いところで起きたように思われたが

しばらくすると
広島市内に新型爆弾が落とされ
市内はほぼ全滅したらしいと聞かせれた

あの閃光は
私の下宿先を跡形もなく消し去り
同時に
任官時に祖父母が仕立ててくれた軍服
賜った勲章
父の形見を打ち直して作ったサーベル
そして私の未来の妻の体も消し去っていたのだ













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プロフィール

HN:
おばこ店長
性別:
男性
職業:
金魚ブリーダー
趣味:
金魚
自己紹介:
金魚ブリーダーが片手間で楽しむ家庭菜園です

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